エピソード

  • 長女で大本三代教主出口直日は、小学校入学時の父親職業欄に「世界改造業者」と記入した。

 

  • 第二次大本事件前に亀岡で対談した大宅壮一は「浴衣の上に絽の羽織を引っかけて、頭には妙な烏帽子のようなものを頂いているでっぷり太った、がっしりした体格の大男だ。年齢は六十歳以上らしいが、どこか全体に若々しい元気がある。顔も、声も大きい。一口にいえば善良な牡牛の感じだ」(原文まま)という印象を抱いた。戦後、大宅は再び王仁三郎について回想する。霊能力については懐疑的だが、「いずれにしても王仁三郎という男は、奸智に長けたところもあるが、ひどくまぬけたところもあって、憎めない。一見"百姓上がりの武者小路"という感じだが、インテリでないだけに、もっと豪快で、スケールが大きい。」と評し、その人気は人柄・人間的魅力・天才的な人心収攬術に由来したと指摘する。

 

  • 宗教専門紙中外日報の社主真渓涙骨は「私は、直接間接に随分多くの人間を知ってきたが、未だかつて聖師(王仁三郎)のごとき、羽目のはずれた脱落超風の超人的野人に触れたことがない。パアーとした大風に灰をまいたような、どこといってとらえどころのない、大賢か、大愚か、豪傑か、凡俗か、かつてこんな得体の判らぬ怪物に触れたことがない。口を開けば、諧謔とユーモアの濫発で、エロ、グロの明暗両相、どこがこの人の本質だか、真面目だか、サッパリ見当がつかない。それでいて汲めども尽きぬ愛情に、世の一切を包み、底知れぬ魅力に万人の心をつかんで離さない。まったく超人的の異彩を放っていると思う」と評している。

 

  • 平塚らいてうは大本信者の姉を持ち、大本に興味を持っていた[251]。らいてうは教団誌「人類愛善新聞 昭和7年8月上旬号」の寄稿記事で『霊界物語』とエマヌエル・スヴェーデンボリの関係性を指摘し、「出口聖師のあのつかみ所なき大きな人格に私共とて同様に世人も、もっと信頼を置いてよいのではないかと考えてゐる次第で御座います」と述べる。大戦中、らいてうは王仁三郎の予言を信じて東京から疎開、戦後も大本関係者と交流を続けた。

 

 

  • レフ・トルストイの影響で新しき村を建設した武者小路実篤は谷口雅春(当時は大本在籍中)に対し「君には某子(王仁三郎)が耶蘇の再生に見えるのですか」と問いかけ、また雑誌『新天地』の記者に「大本教は理性に反する処が多いので無視しています。調べる気もありません」と述べた。

 

  • 大本から独立して世界救世教を開いた岡田茂吉は、昭和27年に出口虎雄(王仁三郎の娘婿)に「おやじ(王仁三郎)は大きかった。おやじが懐かしい」と述懐した。

 

  • 谷口雅春と江守輝子は大本在籍時に結婚、式には王仁三郎も出席し、教団内結婚式第一号となる。昭和55年8月の取材で、輝子は王仁三郎について和歌を詠む時には不思議な能力があったこと、雅春もある面で王仁三郎の特異な能力を認めていると答えた。

 

 

  • エルンスト・クレッチマーは循環気質の指導者を「果敢な猪突猛進主義者、スケールの大きい敏腕な組織者、宥和的懐柔的な術策者」の三型に分類し、前二者の牽引力は軽躁性の要素に負うとしている。精神科医宮本忠雄は、前述の要素を全て備えた者が王仁三郎とする。また王仁三郎の「手をひろげすぎて失敗する」というパターンは、軽躁的性格に起因すると指摘する。宮本は、宗教・事業・思想・勉学・芸術のあらゆる物に興味を持ち臨機応変に取り込んで成長する王仁三郎について「彼の一生は要するに混交的肥大の生涯だったと考えても間違いあるまい」「多くの支流を統合し、清濁を併せ呑む大河。氾濫は河の意思ではなく、流域の水が河へ流れ込む為である。『パラノイア川』と名づけるにはあまりに濁りが目立ち、『妄想江』と呼ぶには河水と堤防とがあまりに調和している。途中に奇岩怪石の立ち並ぶ急流の箇所もあるが、河全体の景観を変えるほどのものではない」と評した。

 

  • 青年時代に「安閑坊喜楽」と号して冠句を残すなど、多芸多趣味であけ広げで気の置けない人柄であり、どんな時でもユーモアを忘れなかった。第二次大本弾圧の裁判時、検察側の主張を煙にまいて法廷内に笑いが起きたほどである。釈放後の回顧歌にも、体制側への怒りと悲愴感の中にユーモアが漂っている。半面、気が弱い一面もあり、大胆で豪放、繊細で緻密、気が強く情に脆いという複雑な性格といえる。親交を結んだ内田良平や頭山満は西郷隆盛を念頭に「丹波に鐘のような男がいる」と評した。