王仁三郎と合気道

植芝盛平は王仁三郎の蒙古入りに同伴するほど関係が深く、大正末から昭和初期にかけて王仁三郎の側近として武道修行を行った。

 

1920年(大正9年)春に植芝が綾部移住の挨拶をすると、王仁三郎は「武の道を天職とさだめ、その道をきわめることによって大宇宙の神・幽・現三界に自在に生きることじゃ。大東流とやらも結構だが、まだ神人一如の真の武とは思われぬ。あんたは、植芝流でいきなされ。真の武とは戈を止まらしむる愛善の道のためにある」と語り、側近に抜擢した。

 

1924年(大正13年)の蒙古入りで植芝は「王守高」を名乗って護衛役となり、『霊界物語-入蒙記』でしばしば登場する。

 

大本と王仁三郎は合気道に強い影響を与えており、植芝の語録は霊界物語からの引用が多い。

 

一例として、植芝は道場で「三千世界、一度に開く梅の花」と声を出し手を開き、続いて「梅で開いて松で治める」と述べて手を結ぶ動作をしていたが、これは開祖出口なおの教典『大本神論』冒頭文

 

「三千世界、一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて、松で治める、神国の世になりたぞよ。(中略)神が表に現れて、三千世界の天之岩戸開きを致すぞよ。用意をなされよ。この世は全然、新つに致して了ふぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下泰平に世を治めて、万古末代つづく神国の世に致すぞよ」

 

の引用である。

 

1932年(昭和7年)8月13日に大日本武道宣揚会が発足すると、王仁三郎は「真の武は神より来る。破壊殺傷の術は真の武ではない。地上に神の御心を実現する破邪顕正の道こそ真の武道。真の武士道は武士道を言挙げせぬ神代に存在していた」という趣旨の設立趣意書をよせ、独特の武術論を展開している。

 

なお合気に「愛気」をかけあわせたのが王仁三郎であり、昭和7年の大本機関誌では「合気道」の命名者も王仁三郎としている。

 

植芝の甥井上艦昭(親和体道/親英体道創始者)も、「合気武道」命名者は王仁三郎と証言している。

 

第二次大本事件で大本は壊滅するが植芝は弾圧を受けずに済み、さらに合気道を発展させていった。