逸話

  • 生家・上田家は祖父の散在により没落し、王仁三郎誕生時には極貧農家になっていた。上田家の伝説では七代ごとに偉人が現れるとされていたが、喜三郎は「幽霊画」で有名な円山応挙から数えてちょうど七代目にあたる。それが事実かどうかよりも、自己劇画化に円山応挙を用いたことが王仁三郎の心情を語っているとされる。

 

 

  • 出口なおの三女・福島久は、母の啓示に従って京都府船井郡八木町に小さな茶店を出した。1898年(明治31年)8月16日、王仁三郎(当時は上田喜三郎)は偶然この茶店に立ち寄り、久からなおの「筆先」を見せられて綾部行きを決意した。

 

  • 出口家に婿入りしてから、王仁三郎となおは「火水の戦い」と呼ばれる対立を起こし、お互いに懸かる神を悪神と攻撃した。

 

  • 初期の大本はなおの筆先を絶対視する原理主義の傾向があり、宗教的理由から菜食主義を実践していた。王仁三郎も玄米菜食を推奨するが、時に大槻鹿造(なおの長女の娘婿)が経営する肉屋に赴いて牛肉を食べていた。第二次大本事件後には当時の信者達を「神様の言葉を盲信して、頭はカチカチだった」「熱心といえば熱心で、神様には理屈ぬきでまっしぐらだった」と回想し、昔は熱心だが常識がなく、現状の信者は教養こそあるが熱がなく、両者の良い所を混ぜると良い信仰になると語った。

 

  • 出口なおは「大本では男子は育たぬ」と予言していた。王仁三郎は多くの予言を的中させたが、妻のすみの初妊娠がわかった際に王仁三郎は男子を希望し、なおは啓示に従って女子と断言する。誕生したのは長女・直日だった。1913年(大正2年)8月29日に長男・六合大(くにひろ)が誕生するが、生後220日で急死した。王仁三郎は体を転がせて慟哭し、今度は女子として生まれ変わるよう遺骸に告げた。五女・尚江が産まれると、どこから見ても瓜二つと喜んでいる。

 

  • 労働運動家の三田村四郎が、官憲に追われ国外へ高飛びする際、乳飲み娘を王仁三郎に託した。間もなく、王仁三郎に隠し子がいるという噂が広まり、妻のすみが当否を問いただすと王仁三郎はこれを認めたため、すみと大喧嘩になった。女児は王仁三郎の子として養育され、子供自身も長く王仁三郎の娘と信じていたが、十数年後に三田村が名のりをあげて娘と対面した。

 

  • 出口なおが自動書記によって残した「筆先」を偽作したという攻撃が執拗になされた。例えば、大本幹部で「霊界物語」の口述筆記に当たった谷口雅春は、原文と王仁三郎の文章を比較対比して予言の食い違いや啓示に疑問を感じ、後に脱退して生長の家を設立した。これは「筆先」の中に「王仁三郎を使え」と命じる文があり、なおは筆先の編集を王仁三郎に委託。彼は言霊を用いて筆先を大幅に修正・体系的にまとめ、『大本神諭』として公表した。教義上、なお(変性男子/女体男霊)と王仁三郎(変性女子/男体女霊)は切り離せない存在であり、当人も解釈は当然と割り切っていた。また筆先の原文には神の支配と同時に君主権力の廃絶(天皇の退位)を求める文面もあり、文章の整理と編集をしなければ戦前の日本で発行できなかったという側面もある。

 

  • 第一次大本事件当時の大本幹部浅野和三郎は王仁三郎のライバルだった。王仁三郎に屈折した感情を抱く浅野に対し、王仁三郎の側もライバル意識やコンプレックスを吐露している。ユーモアや言葉遊びの名人だったにも関わらず直接的に非難したこともあった。二人の関係は出口なお(シャーマン、霊能者)と王仁三郎の関係(プリースト、祭祀者、取次)を、そのまま王仁三郎と浅野に置き換えたものとされる。第一次大本事件や霊界物語の教義化により大本を去り心霊科学研究会を設立した浅野に対し、王仁三郎は微妙な態度を取った。心霊研究については「今頃に心霊科学研究もあつたものかい 日本には昔からある」と批判した。

 

  • 王仁三郎の次女・梅野は浅野正恭(海軍中将)の養子・遥(出口寿賀麿と改名)と結婚したが、昭和3年に離婚した。政恭と遥は大本を去ったが長女の操は残り、1987年の取材でも自分は大本の子と語っている。

 

  • 王仁三郎は手相観相も行っており、ある日知人の柳原緑風に「観る人観る人、火難ばかり目について、目がおかしくなったに違いない。手相観はやめる」と悩みをうちあけた。間もなく関東大震災が起り、自信を取り戻したという。

 

  • 矢野祐太郎(海軍大佐、シオン賢者の議定書を伝えた1人)は大正10年5月4日に王仁三郎への情報漏洩により岡田啓介海軍艦政本部長(第二次大本事件時の総理大臣)から謹慎処分を受けた。退役した矢野は中国大陸で三也商会を開き、王仁三郎の蒙古入りを支援している。

 

  • 王仁三郎は教典『霊界物語』第64巻で日ユ同祖論を論じ、「王仁はユダヤのことを悪く書いたことはない」「ユダヤは神の選民、日本は天孫民族で直系。ユダヤは三分の一は良いので三分の二は○いので、之がフリーメンソンをやってゐるのである。今の戦いは之がやってゐる。イスラエルの十二の氏族は選ばれたのや。一番いいのが日本へ来てゐるので日本民族や」「ユダヤが暫く世界を統一する。それから○○の番だ」と語る。王仁三郎の日猶同祖論は、後発の日月神示や宇田川豊弘の日本エホバ教団(昭和25年)等に影響を与えた。

 

  • 東条英機陸軍大将と築地の料亭で会い「軍部があまり強く出ては国をつぶす。軍部の考えは十年以上早すぎる」と告げたが、東条は宗教家に諭されたことで立腹しただけだった。

 

  • 1931年(昭和6年)9月28日、川島浪速川島芳子が亀岡の王仁三郎を尋ねた[300]愛新覚羅溥儀(宣統帝)を亀岡に匿うという筆談用紙が残されている。王仁三郎は「つまらぬ者に利用されると宣統帝の没落になる」と警告していた。

 

  • 出口日出麿の友人に岡本天明がおり、大本機関誌「人類愛善新聞」の編集長を務めた。第二次大本事件に於いて岡本は逮捕を免れ、鳩守八幡神社の留守神主となる。太平洋戦争中、岡本は神示を受けて「日月神示」を著す。戦後、岡本は王仁三郎を訪問したが反応は芳しくなく、大本もこの神示を正統なものとは認めていない。

 

  • 自身を象徴する星はオリオン座と語り、亀山城の跡地に建てられた神殿「天恩郷」の月宮殿はオリオン座を地球にうつしたものだとされる。この星座に関する和歌も大量に詠んでいる。後の第二次大本事件を回顧した歌集では、オリオン星座とは拘置所と述べている。

 

  • 大本は、出口なお、王仁三郎、すみの関係を「扇」に喩え、なおは骨、王仁三郎は紙、すみは要と定義した。