出口なおとの出会い

多芸多趣味の喜三郎は義侠心を持った賑やかな人物であり、侠客の親分から養子の申し込みがあるほど亀岡で人気を博した。

 

だが父の死、喧嘩で負傷した事、祖母の訓戒が重なり、宗教家への道を歩み出す。

 

1898年(明治31年)3月1日、松岡芙蓉(または「天狗」と名乗ったとも)と名乗る神使に伴われて、亀岡市内の霊山高熊山の頂上近くの洞窟に一週間の霊的修業をする。

 

その結果、喜三郎は救世主としての自覚を持つ。続いて精乳館を弟に譲り、静岡県清水の稲荷講社で長沢雄楯に師事して霊学の修行を行ったのち、鎮魂帰神法と審神学を伝授される。

 

これによって伯家神道や言霊学、修験道といった古神道の知識を得た[31]。長沢は喜三郎にかかった神を小松林命(素戔嗚尊の顕現または分霊)と審神した。

 

自信をつけた喜三郎は稲荷講社に繋がる「霊学会」を設立、会長となり、亀岡の北西に位置する園部で布教をおこなう[33]。周囲からは「喜楽天狗」と呼ばれた。

 

1898年(明治31年)10月8日、喜三郎は大本の開祖・出口なお(直)(以下、『なお』と表記)を京都府綾部に訪ねる。

 

極貧生活を送る無名の老婆だったなおは祟り神と恐れられた『艮の金神(国常立尊)』の神懸かりを起こし、日清戦争の予言や病気治療で「綾部の金神さん」という評判を得ていた。

 

暫定的に金光教の傘下で活動していたが徐々に方針の違いが明らかになり、独立を希望すると共に自らに懸かった神の正体を審神する者を待っていたのである。

 

最初の対面では、なおが稲荷講社所属の喜三郎に不信感を持ち、また金光教由来の信者達も彼を敵視したため、物別れに終わった。

 

1899年(明治32年)7月、なおは神示によって喜三郎こそ待ち人と悟り、再び綾部に招いた。

 

喜三郎はなおに神懸りした「艮の金神」を「国武彦命」(後に日本神話の創造神国常立尊と判明)と審神し、綾部に移住した。二人の関係は、神秘的な女性と組織的男性がコンビを組んで指導を行うアジア的なシャーマニズムの型とされる。

 

ただし、二人が太古の夫婦神の分身でありつつ霊的性別の逆転現象を起こしている点に注目すべき点がある。

 

喜三郎はなおを教主、喜三郎を会長とする「金明会」を組織するが、園部で開いていた「霊学会」もほどなく融合させ、8月に「金明霊学会」を設立し、各地に支部、会合所を設置した。

 

現在の大本の「十曜神紋」も綾部藩主九鬼家の九曜紋家紋を引用してこの時に定められた。