大本の海外進出

1923年(大正12年)9月の関東大震災では、中国新宗教団体「道院(世界紅卍会)」(中国版赤十字)が来日して救援活動を行い、同時に王仁三郎と大本に接触した。

 

同種性を感じた王仁三郎は、信者の日野強(退役陸軍大佐・探検家・作家)の影響も受け、大陸への関心を強めていた。

 

1924年(大正13年)2月13日、第一次大本事件による責付出獄中に「神の国を建設して失業問題と食料問題を解決する」という構想により、植芝盛平、松村真澄(法学士)、名田音吉(理髪師)を連れて日本を出奔し、関係者を仰天させる。

 

腹心には遺書「錦の土産」の中で『東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する心算なり、事の成否は天の時なり、煩慮を要せず、王仁三十年の夢今や正に醒めんとす』と目的を明かした。

 

2月15日、モンゴル地方に到着すると、盧占魁(ろせんかい)という馬賊の頭領とともに活動する。

 

日本陸軍特務機関が仲介に入り、張作霖から内外蒙古の匪賊討伐委任状を貰い受けた上で義勇軍を編成。

 

ダライ・ラマやスサノオを名乗ると、チンギス・ハーンになぞらえエルサレムを目指して進軍した。

 

だが張は、王仁三郎達が全モンゴルの統一と独立を目指していることを知って怒り、討伐軍を派遣した。

 

6月20日、パインタラ(現在の通遼市)にて王仁三郎一行と盧は捕虜となる。

 

盧は処刑され、王仁三郎も銃殺されそうになり、覚悟を決め辞世の歌を詠む(パインタラの法難)。

 

処刑直前に日本領事館(日本軍)の介入で解放され、植芝らと共に帰国することが出来た。

 

入蒙の目的が布教目的だったことは認められたが、治安を乱す恐れがあるとして3年間の在留禁止処分が下った。

 

1924年(大正13年)7月25日に下関に到着すると逮捕され大阪刑務所におくられるが、3ヶ月で釈放された。

 

王仁三郎の冒険談は関東大震災後の鬱屈した人々に快哉をもって迎えられた。

 

1929年(昭和4年)10月、出口すみと共に世界紅卍字会の協力を得て朝鮮・満州の布教に努めた。

 

抗日運動が激しさを増していたが、夫妻は熱烈な歓迎を受けたと伝えられる。

 

国内での活動が制限される中、王仁三郎はアジアでの活動を重視して中国の軍閥や日本の右翼頭山満や内田良平と関係を結び、北京に「世界宗教連合会」を設立した。

 

続いて「人類愛善会」を発起、これらの動きは第一大本事件と満蒙での失敗から、実際の権力ではなく思想・信仰における改革への方針転換とされる。

 

特に満州に対しては、世界紅卍会と提携して積極的に進出した。

 

また中国大陸だけでなく、教団内に「大本開栄社」を設立して、日本の委任統治領となった南洋諸島への布教を行った。

 

アジア、南北アメリカ、ヨーロッパにも進出し、各国の宗教団体・心霊主義団体と連携する。

 

宗教活動が制限されたソビエト連邦にも働きかけを行っている。

 

大本と王仁三郎は民族主義(天皇中心主義・日本至上主義)と世界宗教性の振れ幅が大きく、対応に苦慮した日本政府は警戒を強めていく。