大本神諭と終末論

1918年(大正7年)11月6日、開祖・出口なおが81歳で死去する。

 

末子の出口すみ(澄)が二代教主・夫の王仁三郎が教主輔(「補」ではなく特別に「輔」を用いる)となる。

 

1919年(大正8年)、大本は亀山城址を買収して綾部と並ぶ教団の本拠地「天恩郷」に改修。翌年8月に大正日日新聞を買収して言論活動に進出するなど活発な布教活動により教勢を伸ばした。

 

19世紀末期から20世紀初頭にかけて日本を含め世界的にスピリチュアリズムが活発となり、大本の発展も国際的な心霊主義の勃興と無縁ではない。

 

王仁三郎は浅野と共に心霊主義的な古神道の実践を行い、大きな成功を得た。現世利益や病気治療を期待して大本に接近した人々は鎮魂帰神法によって神霊世界を実感し、多くの信徒が信仰を確定的にして大本の思想に共鳴していった。

 

こうして一般人や知識人だけでなく軍人や貴族までもが次々に入信する。

 

特に元海軍機関学校教官・浅野和三郎の布教により大日本帝国海軍は大本の影響を受けた。

 

戦艦「香取」では軍隊布教が行われ、浅野正恭(和三郎の従兄弟)は入信、山本英輔や秋山真之も綾部を訪れて大本を研究している。

 

戦艦「日向」など軍艦単位で寄付を行った艦も少なくない。

 

華族では、昭憲皇太后の姪・鶴殿ちか子が入信して宣伝使(宣教師)となった。

 

香淳皇后の養育にあたった山田春三(宮中顧問官)も入信し、宮中某重大事件では王仁三郎に相談している。

大本の急成長の一因に終末論があった。

 

浅野和三郎(筆頭幹部)や谷口雅春らは「大正十年立替説」(明治五十五年の世の立替、大正維新、二度目の岩戸開き)という終末論を大正日日新聞や機関誌「神霊界」を通じて宣伝する。

 

『大本神諭』は日本神国観を打ち出しつつ、日米戦争や都市の焦土化、天皇制国家の滅亡すら予言しており、明治維新以降人々が深層心理に抱いてきた不安や鬱屈を強烈な終末観へと増幅した。

 

第一次世界大戦や米騒動、ロシア革命で騒然としていた人々は大本に注目し、教団は信徒30万人という爆発的な発展を見せるに至る。

 

植芝盛平、友清歓真、岡田茂吉、中野与之助、柳原白蓮、小山内薫といった多くの人々が、浅野入信以降の大本に引き寄せられていった。

 

王仁三郎は信者達の行き過ぎに警告を出したが、「立替え説」について肯定も否定もせず曖昧な立場をとる。

 

開祖(旧信者派)と王仁三郎(大先生派)の従来対立に加えて急進的な浅野が派閥争いに割り込み、浅野たちの勢いは王仁三郎派を上回るものがあった。