晩年

1942年8月7日に保釈されると、亀岡の農場に戻って家族と共に暮らした。

 

1944年(昭和19年)12月、京都府清水の窯元佐々木松楽の亀岡疎開を知って尋ね、陶芸をはじめた。

 

祝詞を唱えながら体調を損ねるほど没頭するなど、宗教的情熱に満ちた芸術活動だった。

 

王仁三郎は松楽が京都から持ち込んだ10-15年分の陶芸材料を1年で使い果たしている。この楽焼は後に「耀盌(ようわん)」と称され、現在もなおその美術的価値は国内外で高く評価されている。

 

控訴審には「今度が天王台の審神で、神の仕組みは成就した。善悪は立て別けられた」として関心を持たなかったという。

 

相談する信者には、反戦平和と日本の敗戦を予言している。

 

和歌では「天地に神あることをつゆ知らぬ 醜のしれもの世を乱すなり」「荒れ果てし神の御苑に停ずみて 偲ぶは神国の前途なりけり」と権力者達を批判した。

 

敗戦後には、朝日新聞の記者に「日本の上層部はわれよしで、自分達が一番正しく、えらいと思うから戦争がおきた。諸外国もわれよしを改めぬ限り戦争は絶えない」と述べている。

 

天皇の神格化や国家神道については「殊に日本の官国幣社が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違ひの根本だった」と厳しく批判した。

 

1946年(昭和21年)2月、教団活動を「愛善苑」として新発足させた。

 

教団経営や各地への巡教、返還された綾部・亀岡の再建に尽力したが、8月に脳出血で倒れた。

 

以後健康を取り戻すことなく、1948年(昭和23年)1月19日午前7時55分に逝去した。満76歳没。綾部の天王平に歴代教主と共に埋葬されている。