出口の生い立ち

出口王仁三郎の前半生は自伝や大本の伝記によるところが大きく、空海や役行者のような聖人伝説の影響が見られる。

 

一般には1871年(明治4年)8月27日(旧暦7月12日)、現在の京都府亀岡市穴太(あなお)に、農業を営む上田家五男三女の長男上田 喜三郎(うえだ きさぶろう)として生まれた。(以下、改名まで『喜三郎』と表記。)

 

祖母・上田宇能は、『日本言霊学』で有名だった中村孝道の妹にあたり、伝承や言霊学を始めとした知恵を持っていた。

 

喜三郎は幼少時は登校さえ出来なかった虚弱体質児であったため、家で祖母にあれこれと教わり、同年代の子供より老人達と交わることを好んだ。

 

また、近所ではその聡明さから「八つ耳」(直感力や理解力に優れた人間の意)、神童と言われていた。少年時代、明智光秀が築いた亀山城に登って天下に勇躍することを願ったという。

 

1883年(明治16年)、13歳の時に通学する小学校教師と喧嘩沙汰となり退学、校長に見込まれ、その教師の代用教員として採用される。

 

2年後、正式な小学校教員が赴任してきた為に辞職(僧侶出身の教員と神道について口論になったとも)、農業をはじめ様々な職種を体験する。

 

豪農の家に奉公したことで、小作人や小農の格差を自覚した。

 

1893年(明治26年)(23歳)のころから園部の牧場で働きながら獣医を目指すが不合格となり、京都府巡査試験に合格するも拒否。

 

明治時代の若者として立身出世を目指す喜三郎は、マンガン鉱の探鉱やラムネ製造など幾つかの事業を始めるが失敗した。結局1896年(明治29年)(26歳)で独立し「穴太精乳館 上田牧牛場」を開業、搾乳・牛乳販売業を始めて成功を収めた。

 

当時、園部の南陽寺に滞在していた岡田惟平から古事記・日本書紀の国学的解釈と和歌を学んでいるが、喜三郎と宗教との接点は少なかった。

 

歯痛を癒やしてくれた事を機会に、以前より上田家と関係があった妙霊教会(兵庫県の山岳信仰)に出入りするが、熱心な信者ではなかった[