第一次大本事件

日本政府は「国家神道」と食い違う神話解釈を行い、メディアを通じて信者数を拡大し、陸海軍や上流階級まで影響力を持つようになった大本に危機感を覚えた。

 

さらに浅野たちが黙示録的な予言をメディアで全国に宣伝したため国内は騒然、当局の懸念はますます強くなった。

 

内務省が公式に警告を発し、王仁三郎も警察に呼び出されて注意を受けている。

 

教典『大本神諭(火の巻)』は不敬と判断され発禁になった。

 

陸・海軍大臣は軍内における大本信者の一掃を通達している。

 

原敬首相も1920年(大正9年)10月の日記で大本への不快感を記した。

 

政府上層部だけでなく、多くの文化人・知識人・宗教界・既存メディアも大本を非難。

 

政府は元信者が大本を「皇室の尊厳を冒涜した」「王仁三郎は陰謀家だ」「日本神話に勝手な解釈を加えた」などと告発したのをきっかけに、1921年(大正10年)2月12日に不敬罪・新聞紙法違反として弾圧を加えた(第一次大本事件 )。

 

80名が検挙されたが、最終的に王仁三郎・浅野・吉田祐定(印刷出版責任者)が京都地裁に起訴された。

 

開廷(9月16日)から判決(10月5日)まで25日という裁判で、王仁三郎に新聞紙法違反と不敬罪で懲役5年、浅野10ヶ月、吉田3ヶ月という判決が下った。

 

不敬を理由に教団の施設破壊が行われたが、決定的な打撃とはならなかった。

 

1924年(大正13年)7月21日の大阪控訴審判決は第一審判決を踏襲(裁判期間中、王仁三郎はモンゴル滞在のため出廷せず)、1925年(大正14年)7月10日の大審院では前判決破棄の判決が下り、事実審理からやりなおす。

 

1927年(昭和2年)5月17日、大正天皇崩御により控訴審は終結したが、内務省は大本を壊滅させる機会を伺っていた。

 

一方、王仁三郎は天理教や金光教のように教派神道として公認される道を選ばず、自らのカリスマを武器に独自の教義を維持して活動を続ける。

1921年6月17日に王仁三郎は保釈されたが、大正日日新聞社の経営悪化で莫大な借金を重ね、10月5日に有罪判決、10月11日に綾部本宮山神殿破壊命令がくだった。

 

10月14日、「皇道大本」を「大本」に改名し夫妻幹部含め総辞職、長女の直日(20歳)に教主の座を委ねた。

 

10月18日、自身の教義と体験の集大成として10月18日から『霊界物語』の口述を始めた。

 

400字詰原稿用紙で約300枚の一巻を平均3日で製作した速度は超人的とされる。

 

1935年の弾圧事件まで81巻83冊が発刊された長編の『霊界物語』では神界・幽界及び現界を通じた創造神である主神(すしん)の教えが、さまざまなたとえ話を用いて説かれており、教団内では人類救済の福音としての意味があると位置づけている。

 

第一次大本事件の一因となった予言と終末論による暴走を押さえるべく、なおの教義(大本神論)と信奉者を王仁三郎の権威で克服する計画という見解もある。

 

発禁となった神諭に対し、当局の干渉を避けるべく「立替え立直し」の思想を比喩や隠喩で包み込んだ新教典が必要となったという事情もあった。

 

一連の事件と『霊界物語』の教義化により、浅野、谷口、友清歓真をはじめ多くの幹部と信者が教団を去った。

 

王仁三郎は娘婿の出口日出麿と出口宇知麿を新たな幹部として重用していく。

 

また活動拠点を綾部から亀岡へ移し、綾部は祭祀本部、亀岡は宣教本部と定義した。

 

ここにもなお(厳霊、日、火、天照大神)と王仁三郎(瑞霊、月、水、スサノオ)の二重構造と「型の反復」という大本の構図が見られる。

 

この他にもさまざまな活動を行った。日本コロンビアは大本の人気を見込んで王仁三郎のアルバムを9枚発売した。

 

柳原白蓮(大正天皇の従兄妹)が離婚スキャンダルに巻き込まれた際、王仁三郎は頼ってきた白蓮を綾部にかくまい、黒龍会の内田良平と対立している。

 

1922年(大正11年)3月、全国水平社が結成されると初代委員長南梅吉を尋ねて激励し、財政的支援も行った。

 

1923年(大正12年)にはローマ字を取り入れ、またバハイ教の布教師フィンチやルートまたロシアの作家ヴァスィリー・エロシェンコとの交流を機に国際語エスペラントの教団活動への導入を始めた。

 

1918年(大正7年)に欧州から帰国した陸軍将校秦真次が王仁三郎に語ったのが最初ともいわれる。

 

後の満州国建国に際して石原莞爾と連携し、大本がエスペラントを満州に広めるという計画もあったが実現しなかった。